
蕎麦は奈良時代頃、『類聚三代格』には養老7年8月28日(723年10月1日)と承和6年7月21日(839年9月2日)付けのソバ栽培の奨励を命じた2通の太政官符を掲載している。「曾波牟岐(蕎麦/そばむぎ)」(本草和名・和名類聚抄)あるが「久呂無木(くろむぎ)」和名類聚抄と呼ばれていたソバが積極的に栽培されたとする記録は見ない
和名類聚抄で、蕎麦(そばむぎ)を麦の1種としてある)。
鎌倉時代に書かれた古今著聞集平安時代中期の僧・歌人である道命(藤原道長の甥)が、山の住人より蕎麦料理を振舞われて、「食膳にも据えかねる料理が出された」として、素直な驚きを示す和歌を詠んだという逸話を記した。都の上流階層である貴族や僧侶からは蕎麦は食べ物であるという認識すらなかった。反映とも言える。この時代の蕎麦はあくまで農民が飢饉などに備えてわずかに栽培する程度の雑穀だったと考えられている。なお、蕎麦の2字で「そば」と読むようになった初出は南北朝時代に書かれた『拾芥抄』であり、蕎麦と猪・羊の肉との合食禁(食い合わせを禁ずる例)
古くは粒のまま粥に、あるいは蕎麦粉を蕎麦掻き(そばがき、蕎麦練り )や、蕎麦焼き(蕎麦粉を水で溶いて焼いたもの。麩の焼きの小麦粉を蕎麦に置き換えたもの)などとして食した。蕎麦粉を麺の形態に加工する調理法は、16世紀末あるいは17世紀に生まれたといわれる。蕎麦掻きと区別するため蕎麦切り(そばきり)と呼ばれる。現在では、略して単に蕎麦と呼ぶことが多い、「蕎麦切り」の呼称が残る地域も存在。
この蕎麦切りの存在が確認できる最も古い文献は、長野県木曽郡大桑村須原にある定勝寺の寄進記録である。同寺での1574年(天正2年頃)初めの建物修復工事完成の際に寄進物一覧の中に「振舞ソハキリ 金永」というくだりが確認でき、少なくともこの時点で蕎麦切りが存在していたことが判明。
他に蕎麦切り発祥地として中山道本山宿(現在の長野県塩尻市宗賀本山地区)という説、甲斐国の天目山栖雲寺(現在の山梨県甲州市大和町)説(天野信景著『塩尻』)もあるが、定勝寺文書の傍証に鑑みるに、確実な発祥地とは言い難い。
蕎麦切り発祥の歴史表
【西暦】 【年号】 【資料】 【内容】
1574年 天正2年 定勝寺文書(3月16日) 定勝寺の修復工事で金永からそば切が振舞われた
1614年 慶長19年 慈性日記(2月3日) 常明寺でそば切を振舞われた
1622年 元和8年 松屋久好茶会記(12月4日) 茶会でそば切を出した
1624年~1644年 寛永 蕎麦入門(1975年) 「朝鮮の客僧元珍が小麦粉の使用を伝えた」という説がある(文献は無く新島は否定的)
1643年 寛永20年 料理物語 そば切(生粉打ち)の製法
1645年 正保2年 毛吹草 武蔵と信濃の名物が蕎麦であり信濃から始まる
1707年 宝永3年 本朝文選 そば切は信濃本山宿発祥で全国に広がった
蕎麦切りという形態が確立され、江戸時代初期の資料に、特に寺院などで寺方蕎麦として蕎麦切りが作られ、茶席などで提供されたりした例が見られる。寛永20年(1643年)に書かれた料理書 料理物語には、饂飩、切麦などと並んで蕎麦切りの製法が記載。17世紀に、蕎麦は江戸を中心に急速に普及し、日常的な食物として定着。
江戸時代に、諸大名から将軍家に献上された品などが記された武鑑のうち大成武鑑たいせいぶかん(出雲寺刊行)の、時献上(ときけんじょう)という季節の節目に行われた献上の項目には9家から蕎麦が献上された。かつて食膳にも据えかねる料理とまで言われた蕎麦が、この時代に為政者への献上に用いられる名誉ある地位を確立した。
総括
生蕎麦は現在で、二八蕎麦、十割蕎麦、五割蕎麦他の「蕎麦屋の蕎麦全般」を言う。蕎麦屋で生蕎麦の語が使われるのは、上等な蕎麦を生蕎麦と呼んでいた頃の名残。本来は「そば粉だけで打ったそば・そば粉に少量のつなぎを加えただけのそば・小麦粉などの混ぜものが少ないそば」を意味するものだ。江戸時代中期以降、小麦粉をつなぎとし使用し始めたことにより、二八蕎麦が一般大衆化したため、高級店が品質の良さを強調する象徴として「生蕎麦」を使うようになる。幕末頃には「生蕎麦」の指す範囲は拡大し、二八蕎麦にも使われるようになる。現在は、蕎麦粉の割合が明らかに低いと思われる都心部などの低価格立ち食い蕎麦店等でも「きそば」のぼりは堂々と掲げられており、その意味は希薄化してしまっている。蕎麦粉だけの蕎麦を売りにしている蕎麦屋は、分かりやすく表示するため「十割蕎麦」あるいは生粉打ちそばという表現を用いるのが一般的。また「茹でる前の生麺」、「生麺・ゆで麺など水分を多く含んだ麺」いう解釈もあるが、この場合は「きそば」ではなく「なまそば(生そば)」と異称される。生蕎麦の看板や暖簾は、現代での変体仮名の用途の代表例として引用される。